2012年5月19日土曜日
福島県郡山市でのボランティア
日本共産党兵庫県委員会の震災ボランティア(17回目)で5月11日から13日の間に福島県郡山市へ行ってきました。
神戸から支援物資の運搬もあり、車で片道10時間の道のり。運転交代でしましたが、やはり疲れます。
今回は、郡山市に避難している双葉町、富岡町、川内村の方の避難所で、寄せられたお米などの支援物資を届けたり、生活面で不便がないかなどの相談、お話を聞かせて頂いたりしました。
実質12日だけの行動でしたが、地元支部のみなさんと御一緒にペアになって行動しました。避難所に行くまでの道中に、道案内していただいた支部の方から、その方が聞いたある家族の葛藤の話(原発事故後の郡山にとどまるかとどまらないかで家族でも不一致があり家族存続の危機などリアル)や、一部の人からは避難者は補償をもらって遊んでいるなどと囁かれている現実があるんだと聞きました(これに関しては、生活保護の一側面を捉えてバッシングする問題とどこか似てないかと感じてしまいます)。
実際、現地を回ってお話をうかがいました。まず、私と話した避難されている方の多くが、親戚や知り合いが原発関連で働いていた(いる)という事実に私の想定より多いことに気づかされました。
いろいろ東電に対する思いはあるが、言いにくいと言う方も。
逆に、安全安全といっていたのにと全然安全じゃないじゃないかとはっきり言う方も。
地震後5日間連絡がとれず、家族では死んだのではという話になったこともあったとか。
川内村は帰村宣言がだされましたが、除染の徹底が明確でないとの不安や、家族が全員帰るわけでなく年寄りの自分だけで帰ることもできないとここに残っているということも言われておりました。
農家で牛を飼っていたが、まだ何頭かは生きていること(この間3度の一時帰宅時に確認した、安楽死させるのはかわいそうと親戚がその都度大量のえさを帰宅時に置いてきたのでおそらくまだ生きているだろうとおっしゃっていました。)
避難されて苦労されている方にもかかる消費税増税の話をした際に、消費税云々がいい悪いかより、補償や目先の生活ができることの方が重要だと、展望が持てない窮状も話して頂きました。さらに先にも記載した、補償で遊んでいるといわれている現状があるのをその方も感じているが(避難者自らその話を口にした時はなんだかやるせない気持ちでした)、実際に先に展望がない状況の方が深刻なんだということを知りました。
などいろんな話がでました。(別の組では、山下よしき議員も質問し実現となったお風呂の追い炊き機能が欲しいとの話が出たところもあったようです。この避難所ではまだ対応されていないようで、これから順次対応となろうかと思います。)現地での声を国政、市政に届け実現するためにも、忌憚のない話ができてよかったです。
避難所近くに設置してあったモニタリングポストという線量計。前日は数値が0.653μシーベルト時にもなっていることろも。日に4時間外にいたとしても年換算だと5ミリシーベルトを超えるということに。子どもが年間1ミリシーベルト被ばくするのでも親は不安なのに、1年経過した現在もこのような数字がまだまだ出る日があるということです。この関西の淡路では、日常生活でそんなことを考えることもなく生活していましたが、あらためて現地に来て放射能への不安ということを体験しました。
猪苗代湖を駆け抜け奥羽山系を超えてくる風が強くまだまだ寒かったです。高速の山部では桜もまだ少し残っていました(北陸道の復路では立山なども雪山がきれかったです。写真 助手席より撮影)。福島へは初めていったのですが、道中含め非常に自然豊かできれいな所でした。福島の方言も人柄がでているのかおおらかな感じでホントに人が暖かいと感じました(現地の人と一緒にまわらないとおばあさんのしゃべる言葉はわからないものもありました)。
そんな自然が多く残る福島県での今回の経験の感想は、自然災害なら悲しみを乗り越えて復興にも切り替えることができたかもしれませんが、原発事故は時間的や空間的にもそれができない特異性があります。本当に原発事故で生活も一変してしまったことに対して憤りを感じます。政治がもっとできることがあると強く感じました。
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